荒れ野の修行の意味
唐突だけれども…気付いたことをメモということで。
先日、聖書で有名な荒れ野のイエスの修行の場面の解釈を理解出来た。悪魔が来て誘惑すると言うあれである。「人はパンのみにて生きるにあらず、神の言葉によって生きるものだ」と言って悪魔を退けた名言がある。
多くの人々は恐らく、食料がなければ生きられないと言うだろう。だからこの名言は比喩的に受け止めるしかない。
一方で所謂原理主義者らは言葉通り受け取るだろう。するとやはり食料がなければ困る事は困るだろうが、例え食糧が無くてもその代わりに神の言葉があれば生きられる、と本気で受け止めるだろうと思う。
だがあの話はそういう意味ではないと得心がいった。
パンというのは食料、つまり人間の生存本能の根本にある食欲を表している。つまり心が媒介する欲からのメッセージの象徴だ。
一方神の言葉というのは、やはり心を媒介してやってくる魂からのメッセージであり、言わば生命としてあるべき生き方を示してくれる「直観」である。
つまりイエスはあの場所で、欲よりも魂で行動を決めるべきだと学び、だからこそ欲を主体として人間を操ろうとする悪魔が取り憑けなかった…と言う話ではないかと。
だがその様に解釈できるキリスト教徒も一般人も殆どいないだろうな…。
自分を観る作業は自分の心に現れてくるものの中から欲を切り分け、欲から来たものではない何かしらを見分ける訓練であったように思える。その事を伝える逸話がいつの間にか寓話的に形ばかりとなってしまったように思えて残念だ。
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