問題の本質はシステムではなく心の中にある
教師の体罰で高校2年生が自殺した事件は様々に騒がれているが、気になるのは多くの報道やコメントが社会システムの欠陥を問題視しているところだ。どうして心の問題には一切触れないのだろうか。
この事件ではバスケ部顧問が2011年9月にも体罰の通報を受けながら、学校側は当時バレー部顧問の体罰事件が表面化したことで対応に追われ、大した調査もせずに見逃している。
率直に思うのは、バスケ部顧問は何故、体罰をやめなかったのかという事だ。
同僚が懲戒停職を受け、しかも市教委に自分の事も通報されていながらだ。
今になって事件が大きくなり、謝罪をしているというものの、本当にこのバスケ部顧問は体罰を反省しているだろうか?
いや反省していないのではないかと思えてならないのだ。
反省するくらいならとっくに変わっていたはずだ。
同一校勤続10年までと定めている市教委や転勤を薦めた校長に逆らってまで居残ったこの教諭は、元々自分のやり方に問題など微塵も認めていなかったのではないだろうか。
だからこそ今でも体裁はともかく、やはり自らの方針を変える気はさらさら無いのではないかと思えてくるのである。
自分の問題点を気付いて直そうとするのは辛い。何故なら、普段の人間は自分が悪者だとは思っていないからだ。直さなければならないと言うのは、自分が間違っていた事を認めなければ始まらない。これを認めることが全く出来ない人間が殆どの世の中になっている。
自分は間違っていないと言い張っているのは心の虎、我欲の声であり、理性的には問題点を修正してより良くなる事を選ぶべきだと気付くべき所だが、人としての魂を殆ど失っている人間は、欲の言いなりになって安泰してしまう。
実は悪者などいないのである。
いるのは我欲に乗っ取られた人間だけだ。
いるのは魂の抜けた人間なのだ。
そう言う人間は、ヒトとは呼べないかも知れない。
聖書風に言えば、人間ではなく獣である。
欲を中心に動くだけの動物となる。
これが振るい分けの時期を過ぎてもなお、ヒトとして当たり前にあろうと出来なかった人間の現れなのだろう。
この事件では高校の他の教諭や校長らも事件を見て見ぬ振り、隠蔽した問題があるが、突き詰めれば一人一人が問題を正面から見て対処しようとしなかった勇気の無さが根底にあるだろう。
「だってできないよ、そんなこと…」というところかも知れない。
そして発覚すると態の良い言い訳をくっつける。
だが問題は見て見ぬ振りすると、必ず後でもっと大きくなって再浮上する。
つい先のいじめ自殺事件でもその事は充分示されていたのに、やはり目をつぶってしまった者たちが多かったと言う事だろう。
だから溜め息が出てしまう。
僕自身はこれまで嫌でも見なければならない自分と直面して来たし、それは今でもこれからも同じなのに、どうして彼らは…?と。九割九分九厘が魂抜けとなると言う日月神示の予見はあながち笑えない。
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