査読者が追求されていない
最近、STAP細胞について発表者が疑問視されている風潮を感じる。だが連日の報道の中で全く責任を追及されていないのは査読者ではないのだろうかと疑問を感じていた。
多くの人々は知らないかも知れない。
科学雑誌が論文を掲載する事が何故権威になるのか。それは、投稿を受理してから掲載するまでの間に、複数の第三者の査読者が検閲するからだ。その上で論文の内容を保証するからこそ、掲載に至る。
学位論文でも同じだ。学内の他の教授らによって査読され、博士号を与えるに充分であると判断を下すのは教授会である。
論文に不審な点が有れば査読の段階で見抜かなければならない。見抜けなかったのは査読者の力不足だったのではないか。それとも怠慢か。
早稲田大学は学位授与にあたり査読者や教授会の責任を触れないでいる。ネイチャー誌も査読で何故見抜けなかったのかについて触れていない。明らかに「騒がれないように頭を低くしてバッシングを逃れよう」と触れずにいるように僕には見える。
査読(Jadgement)と言う仕組みを知らないメディアも過熱気味だ。
むしろ提唱者の学術的未熟さに教育問題にすり替える論調さえ出てきている。
そうではないだろう。
学位を与えたり、雑誌に掲載したりする、その関門をきちんとこなすべき科学界そのものが、言ってしまえば怠慢になってきているのではないか。そうでなければ、全体の科学者としての能力が低下し、なれ合いに凋落しているのではないか。
メディアももう少し正しい指摘をして欲しいものだと思っている。