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2017年10月

2017.10.30

そういう人もいる、に隠されたもの

 昨今報じられたロードレイジと言われる問題。迷惑千万であることは誰もが言いつのる
が、落ち着く先は「そういう人も世の中にはいる」と言う言葉である。

 こういった”嫌な気分を割り切れない問題”が話題になった時に、大抵わかったような口調で「世の中にはそういう人もいるんだよ」と諭すように言う輩がいるものだ。

 世の中には色々な人間がいる。それは当然の現実で、自動車運転においては自らの気持ちが収まらずに危険な運転を向こう見ずに行なうような人間も事実存在している現状だ。
 それを何の評価も無く、ただ現実を示す為だけの意味でこう締めくくるのなら問題ない。
 だがこの言葉の裏には何となく「どうしようも無い問題を諦めるしか無いのだ:」という意味が隠されながら語られていると思うのである。そうでなければ話を終息させることができないからだ。
 しかし 「世の中にはそういう人もいるんだよ」で両親を亡くした子供たちの気持ちは納得できるはずが無い。報道を見て似た運転経験をした人も、「そういう人もいる」と言うだけで
は受けた恐怖感を無にはできないではないか。
  これは他の事件でも同じ事だ。突然見も知らぬ人を刺して回って誰でも良かったと供述するような事件があったが、「世の中にはそういう人もいるんだ」で刺された側は納得できるだろうか?
 そしていつ自分の身に降りかかるかもわからないこうした問題に、「そういう人もいるんだ」と言うだけで安心できるだろうか?
 結局実質何も終息していないのに、この「そういう人もいる」で一絡げに終わってしまってはいないだろうか。

 僕はその微妙な諦めムードに疑問を抱いてしまった。

 多様性の現実を語る事と、多様性故に問題解決を諦める事とは、違う事だ。だが「世の中そういう人もいるんだよ」という言葉には両方の意味が微妙に混在し、何となく諦めて話を終わらせてしまう威力がある。だからこそ心のどこかに割り切れないものを感じながらも、話題を流してしまうしかないのである。
 だが本当は解決などしていない。ただ現実がこうなのだから仕方が無い、と言うところで「思考停止」して終わりにしているだけだ。

 よく考えてみると、「それは問題じゃ無いの?」と言う最初の問いには、既に「世の中にそういう人もいるんだ」という前提を踏み越えた上で、「それでもそういう人が存在する世の中に納得しているの?」と問うているのではないだろうか。
 だからこそ「そういう人もいるさ」で終わらせてしまうのは何か違う。

 あおり運転をしたこの事件のように「切れる」人というのは、外的ストレスに対する自己防衛として行動を起こすのではないか、という専門家のコメントを読んだ。今探し出そうとしてもなかなか見つからないが。
 こういった解釈は、心理学者の一仮説としては受け入れられるかも知れないが、それで問題が解決するわけではない。むしろ「この犯人は外的ストレスが強かったからこういう行動にでた」と解釈されてしまうと、運転者の心の内側には問題が無く、外側に問題があった、とする言い訳にさえ聞こえてくる。

 「都合の悪いことが起きると、原因は自分の外側にある、と思おうとする」
 こういう人間の心理は確かに存在するが、存在することに納得して安心してしまってよいのだろうか?
 本当は自分の内側に問題の原因があるかも知れない事を鑑みて、自分自身を掘り下げてみるべきなのが人間の「ヒト」としての本来のあり方ではないのだろうか。専門家が口を出してしまうことで、その肩書きが本質的な内面模索の機会を奪ってしまっていると思えるのである。

 事実上、誰もが自分に問題があるなどとは思わずに生きているだろう。既に自分の内側を見て問題を発見し改善してゆこうと努力できる時期は過ぎてしまったのかも知れない。我々はこの時代にあって、自分たちのしてきた事の結果を、人類という集団責任の中で受け止めて行くしか無いのかも知れない。
 しかしだがだからと言って黙して語らずにいなければならない訳でもあるまい。

 どのような社会的制裁が科されても、本人の心の内面に変化が無ければ何ら解決しない。本質的には一人一人が自らの問題に自分で向き合わなければ解決しない。そういう人類になって行かなければ滅びかねない。だから自分だけは自分と向き合わなくても大したことは無いと思うのは間違いだ。
 しかし世の中の殆どの人は、未だにこのことに殆ど気づいていない。

 そう言う人もいるさ…それで納得して良いのだろうか?
 自分にもそう言う問題があるのではないかと、自分の内面を省みる事を、誰もが行っていなければ、何も解決して行かないのではないか?


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