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2020年2月

2020.02.20

なぜ嫌な顔をしたのか、なぜ聞く耳をもたないのか、その背後にあるもの

 世間で騒がしい新型コロナウィルス、岩田健太郎・神戸大教授が2月18日に公開し再び削除した動画は、既に各種メディアが再掲載しており観ることができる。僕は医者ではないが、氏の説明は合理的だし、意味はよくわかる。勿論氏の感想と解説を分離して文章を吟味するべきではあるが。
 気になったのは、厚労省トップに進言した時、嫌な顔をされ、聞く耳持たずといった状況であったこと。
 菅義偉官房長官は2月20日の会見で政府の対応は適切だったと認識を示したが、そりゃ失敗でしたと言える筈が無い。一方で反論の根拠は数字を明確にしていない。橋本岳厚労副大臣は岩田氏の乗船を「私の預かり知らぬところで」と言ったそうだが、厚労省から招かれて乗船したのだから省内の連絡不備。厚生労働省幹部は「感染症の専門家がいないはずがないし、きちんとエリアの区分けもされている」と言ったそうだが、「はずがない」と言うことは「だけどいなかったかも知れない」とも言える言い方だ。エリアの区分けは現場を観た岩田氏の説得力を崩せる言い方ではない。こうしてみると、あからさまに政府対応を擁護する政治家や官僚は全て、特有の醸しを使った言説で反論しているに過ぎなく、言葉の端々までよく読めば、実は岩田氏を否定仕切れていない。

 よくある「○○したいと考えております」などという言い方は、「考えている」というだけで「どうこうする」といった行動をするとは言明していない。更に「したい」としているのは「したいけれどできなかった」と後から言い換えることのできる言い方だ。こうした醸しを使って結果的には何もしないと言っているのと大差ない言葉遣いは、政治家特有の逃げ道沢山といった言い訳に過ぎない。「○○します」と約束したらできなかったときに進退窮まると思っているのだろうけれど、そのくらいの覚悟が無いのなら政治家などに手を挙げるべきではない。

 何に対しても「しっかり対応して…」「しっかり議論して…」しっかり、しっかり、と言葉がつくのが不審で意味を調べたことがある。反対語検索では「うっかり」になるそうだ。必ずしも全ての文脈で「うっかり」にはならないようではあるが、「うっかり対応」「うっかり議論」としてみると笑える。政治家が何事にも「しっかり」行うのは当然のことで、「うっかり」な人物では国を任せられない。当たり前の事をあえて繰り返すのは、むしろ普段からしっかりできていない潜在認識があるのではなかろうか?

 本題に入ると、何故厚労省トップは「嫌な顔」をしたのだろう? 「聞く耳を持たない」のは何故なのだろう?

 政治家は失敗したくない。これは役人もそうで、民間でも事務職はその傾向がある。既に実施した事が失敗だったと認めてはならない暗黙のルールがあるらしい。更に裁判の判例等では先達が偉いと言う背景があるのか、過去の判例を重んじ、時代の変化に追従できていない様相がある。恐らく政治の世界でも、役人の世界でも、先達を否定するのはタブーなのだろう。政治家は「改革」と称して何かを変えれば、それが改悪だったとしても実績の一つとされるらしい。恐らく改悪であろうがむしろ、先達を否定せずにうまく変化を作り出す事の方が彼らにとって重要なのだろう。

 失敗を認めないと改善は為されない。例え実質改善するにしても過去を失敗とは認めない。それが彼らの在り方だ。それが先達への敬意であり礼儀であり、政治の世界の人間関係で最も重要なわきまえだ、という構図が見えてくる。事実関係よりもむしろそちらへの忖度が重要視されるかも知れない。だからクルーズ船船内の対応に問題があったとしても、決してそれは認めない。認めたくないことには目を向けない、目を背けて蓋をするのがやり方なのだ。そんなやり方をすれば、問題は根本解決せず、いつか再びもっと大きくなって浮上する。それでも目を向けなければ、更に後に大きくなって再々度浮上する。そうしてついには手に負えなくなる・・・。見ぬふりの典型的な末路だ。

 体主霊従の人間はこのような行動が人間の当たり前で有り、そういうものだ、と思考停止する。だが霊主体従の人は良心の呵責を感じる事ができる。そして見たくない現実でも目を向け、苦しみながら対策を打ち出そうとする。この国の99.9%の人々は某書の示す通り魂抜けしたか。

 魂が抜けると言うのは、ぼーっとすることではない。一例は良心の呵責を感じられなくなると言うことだ。欲のトラのままに生きると言うことだ。遙かな天からの信号を受信できなくなっているということだ。それでも日常生活では何ら変化は見えないだろう。でも魂の無い人間は欲だけで行動判断して動いている。ぼーっとなどしていない。

 話を戻すと、厚労省トップはクルーズ船への対応に専門家の意見を耳が痛い思いで聞いたのだろう。しかし失敗は認められない。だから見ぬふりしたかったのだ。しかし岩田氏は現実を突きつけてしまった。だから嫌な顔をしたのだろう。聞く耳を持たなかったのは見ぬふりと同じだ。他の政治家たちも、失敗は認められない。認めれば厚労省トップの責任問題になる。果ては総理の責任問題にもなりかねない。彼らが重要視しているのはそうした人間関係への忖度だ。決して現実の問題を相手にしているのではない。

 よく政治家は白を黒と言えるだけの議論力を持っていなければならないという。そう言う世界にはまると、理論はどうにでも構築できて、だましのテクニックになる。これは文系で言う「理論」。人間がどう受け止めるかを変えれば、世界で起きていることは違ってみてくる。全ては脳内に起きている認識の問題に帰着される。その昔、ニューサイエンスの一つでそう言う考え方があった。

 だが自然科学は現実を捉える。誰の目で見ても同じ現象が再現される客観性を軸にする。それが理系の「理論」だ。白を黒とは言えないが、事実に沿った結果を吐き出す。例え認めたくなくても、認めなければならない結果を吐き出す。

 我々が生きているのはそうした現実の中なのだ。見たくないものは目をそらすだけで解決する現実ではない。

 誰が何をどう言ったか、と争う議会でのやりとりは不毛だ。現実に向き合って事実資料を基に堅実な議論をしなければならないはずだ。

 2006年から2013年にかけての振るい分けの時期を過ぎ、結果を受け取りツケ払いをしなければならない時代になったと思う。我々全体の連帯責任として時代に立ち向かって行かなければならない。失敗を認めなければ改善はできない。自己否定できなければ自己成長できない。嫌な気持ちを恐れる必要など無い。受け止め乗り越え、正しい未来を選択する覚悟と勇気さえあれば。

 この言葉が響く人がこの国にまだどれだけ残っているだろうか・・・。

 

 

 

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