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2023年1月

2023.01.14

時間と位相と並行世界と

 昔、「時間は上向き螺旋状のエネルギーのひとつである。」と言う話を読んだ。人間の感覚では時間は連続しているけれど、実は円を描いて螺旋状に進むものであり、円周の1点にいる我々は次の瞬間には隣の円の円周の1点にいるのだという。当時はその話を理解できなかった。それでとりあえず頭の横に置いておいた。最近、気がついたことがある。

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 三角関数を習うとき、最初は直角三角形の辺の比で教わるだろう。

Trigonometric
 けれどそれだと90度未満までしか定義出来ない。いくらでも大きい角度で理解するためには、単位円を使う。高校数学では出てくるのではないだろうか。単位円は半径1の円で、XYの直交座標の原点周りに円を描く。そして半径1の棒(動径)が原点を中心に回って行く様子を描く。棒は丁度3時の位置からスタートして反時計回りに回る。だから棒の角度はX軸からどのくらい回ったかで数える。この図で棒がX軸に落とす影の長さが実はCOSであり、Y軸に落とす影の長さがSINに当たる。

Circle_function
 こういう風に定義すると何回転でもできて、どんな角度でも三角関数を定義出来る。そしてX軸をもっと右に延長して、もう一つ原点をつくり、XYのグラフをつくると、棒の回転とともにきれいな波の形をした曲線を描けることがわかる。

 

 ところで世の中には位相(Phase)と言う言葉がある。フェイズが変わったなどと言う場合は、何かしら事態の様相が全体に違う状況へ移行したような事を表しているが、それは口語でのこと。 数学的には位相というのは棒のスタート角度のずれだ。つまり本当なら3時方向(X軸べったり)から動き始めるところを、2時くらいとか4時くらいとか、とにかくずれたところからスタートするときに、どのくらいずれた角度から始まったかと言う角度の大きさを位相と呼んでいる。
 三角関数の曲線は、動径が1回転(360度)すると、あとは同じ形の繰り返しになる。だから位相はどう頑張っても上限360度未満しかない。400度もずれたらそれは400-360=40度のずれと同じことになっている。そんなわけで、三角関数あらため円関数は角度を何度でも定義出来るが、位相となると1回転分の間しか種類がない。(注:文章では角度で書いているが、図は弧度法の単位で描いてある)Phase

 時間の話に戻すと、正円のらせんを描いて円周上のどこにいるかと言うのは、円関数の動径の角度と同じように表せる。円周上の1点が今年の1月1日で、先の円の同じ円周上の点が来年の1月1日、そういう風に書いてあった。人間はその間が直線であるかのように認識しているという。つまりらせんに沿って生きておらず、円周上の点を直線で結んだコースを時間と認識して生きているのだという。
 だから2月3月と過ぎて行くにしても、それは隣の円周上の1点(来年の1月1日)に向かってまっすぐ飛んで行っている感覚だ。人間は時間をそのように認識している、と言う意味なのだろう。

Time_line

 ではその他の円周の部分は人間には認識されていないのか?
 そう言うことになる。つまり、本当は0度より大きく360度未満の別の位相の時間があるのだが、我々はそれを認識できていない。我々は我々のいる1点から1点へのラインしかわからない。でも本当は他の1点から1点へのラインもあっておかしくない。1度ずつ区切るのなら、1から359までの別の時間が存在しているのだろうけれど、我々はそれを認識できていない。

Phase_lines

 そう言う意味だったとすれば、ほかの位相の時間は他の世界の人間が認識しているのだろう。自分と1度違う隣の時間にはまた別の自分がいて、1度隣の時間を生きている。そう考えると、昨今話題のパラレルワールド(並行世界)というのは位相がずれた別の時間線という風に読み解ける。それも1度ずつずれるのなら359個の別の時間線があるのだが、別に1度ずつでなくても0.5度ずつでも良いのかも知れない。0.1度ずつでも良いのかもしれない。近いところほど今の自分が認識している世界に近いのかも知れない。
 様々な可能性の世界が並行して進んでいて、我々はそうした多重の宇宙のひとつにいるだけだ、と言うのが流行のパラレルワールドとかマルチバースという考え方だが、実は無限にあるわけではなくて、位相のずれ1回転分の別世界があるに過ぎないのではないか。そして1回転した先には未来の自分の世界がまた現れているのではないか。そう考えると、並行世界は自分のいる世界と無関係に隔離されているわけではなくて、ある未来につながる可能性のある他の世界線ということになる。

 この螺旋状の時間の説明では、その先に未来、つまり昇っていった先でらせんの直径が段々しぼんで、ある1点で収束したあとまた広がる様子が語られている。それはお終いになるのではなく、次元の交錯点を通るのだと説明されている

3 すると未来へつながる様々な可能性の世界が一旦すべて統合された一つの世界に集約され、次元の交錯点を過ぎるとまた、未来を紡ぐ様々なバリエーションの世界へ広がって行く、と言う意味にとれる。言ってみればある未来の集約点に向けて並行世界が一つにまとまる時点がある、と言うわけだ。次元の交錯点というのが何を意味しているのかわからないが、この考察の延長上で考えれば、我々は今のところ様々な未来の可能性があるように思っているけれども、どのような世界でも必ず通過するある現象が先々ある、と言うことだ。どの世界を通っても、最終的には同じ一点を通らなければならない。つまり我々に選びようのない未来の一点がどこか先にある、と言うことだろう。次元という言葉はこれまで書いてきた位相という言葉と通じる意味なのかどうか、わからないけれども。

(参考)「光の黙示録」アーリオーン・北川恵子著 大陸書房 p143~

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