カテゴリー「精神世界」の記事

2023.01.14

時間と位相と並行世界と

 昔、「時間は上向き螺旋状のエネルギーのひとつである。」と言う話を読んだ。人間の感覚では時間は連続しているけれど、実は円を描いて螺旋状に進むものであり、円周の1点にいる我々は次の瞬間には隣の円の円周の1点にいるのだという。当時はその話を理解できなかった。それでとりあえず頭の横に置いておいた。最近、気がついたことがある。

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 三角関数を習うとき、最初は直角三角形の辺の比で教わるだろう。

Trigonometric
 けれどそれだと90度未満までしか定義出来ない。いくらでも大きい角度で理解するためには、単位円を使う。高校数学では出てくるのではないだろうか。単位円は半径1の円で、XYの直交座標の原点周りに円を描く。そして半径1の棒(動径)が原点を中心に回って行く様子を描く。棒は丁度3時の位置からスタートして反時計回りに回る。だから棒の角度はX軸からどのくらい回ったかで数える。この図で棒がX軸に落とす影の長さが実はCOSであり、Y軸に落とす影の長さがSINに当たる。

Circle_function
 こういう風に定義すると何回転でもできて、どんな角度でも三角関数を定義出来る。そしてX軸をもっと右に延長して、もう一つ原点をつくり、XYのグラフをつくると、棒の回転とともにきれいな波の形をした曲線を描けることがわかる。

 

 ところで世の中には位相(Phase)と言う言葉がある。フェイズが変わったなどと言う場合は、何かしら事態の様相が全体に違う状況へ移行したような事を表しているが、それは口語でのこと。 数学的には位相というのは棒のスタート角度のずれだ。つまり本当なら3時方向(X軸べったり)から動き始めるところを、2時くらいとか4時くらいとか、とにかくずれたところからスタートするときに、どのくらいずれた角度から始まったかと言う角度の大きさを位相と呼んでいる。
 三角関数の曲線は、動径が1回転(360度)すると、あとは同じ形の繰り返しになる。だから位相はどう頑張っても上限360度未満しかない。400度もずれたらそれは400-360=40度のずれと同じことになっている。そんなわけで、三角関数あらため円関数は角度を何度でも定義出来るが、位相となると1回転分の間しか種類がない。(注:文章では角度で書いているが、図は弧度法の単位で描いてある)Phase

 時間の話に戻すと、正円のらせんを描いて円周上のどこにいるかと言うのは、円関数の動径の角度と同じように表せる。円周上の1点が今年の1月1日で、先の円の同じ円周上の点が来年の1月1日、そういう風に書いてあった。人間はその間が直線であるかのように認識しているという。つまりらせんに沿って生きておらず、円周上の点を直線で結んだコースを時間と認識して生きているのだという。
 だから2月3月と過ぎて行くにしても、それは隣の円周上の1点(来年の1月1日)に向かってまっすぐ飛んで行っている感覚だ。人間は時間をそのように認識している、と言う意味なのだろう。

Time_line

 ではその他の円周の部分は人間には認識されていないのか?
 そう言うことになる。つまり、本当は0度より大きく360度未満の別の位相の時間があるのだが、我々はそれを認識できていない。我々は我々のいる1点から1点へのラインしかわからない。でも本当は他の1点から1点へのラインもあっておかしくない。1度ずつ区切るのなら、1から359までの別の時間が存在しているのだろうけれど、我々はそれを認識できていない。

Phase_lines

 そう言う意味だったとすれば、ほかの位相の時間は他の世界の人間が認識しているのだろう。自分と1度違う隣の時間にはまた別の自分がいて、1度隣の時間を生きている。そう考えると、昨今話題のパラレルワールド(並行世界)というのは位相がずれた別の時間線という風に読み解ける。それも1度ずつずれるのなら359個の別の時間線があるのだが、別に1度ずつでなくても0.5度ずつでも良いのかも知れない。0.1度ずつでも良いのかもしれない。近いところほど今の自分が認識している世界に近いのかも知れない。
 様々な可能性の世界が並行して進んでいて、我々はそうした多重の宇宙のひとつにいるだけだ、と言うのが流行のパラレルワールドとかマルチバースという考え方だが、実は無限にあるわけではなくて、位相のずれ1回転分の別世界があるに過ぎないのではないか。そして1回転した先には未来の自分の世界がまた現れているのではないか。そう考えると、並行世界は自分のいる世界と無関係に隔離されているわけではなくて、ある未来につながる可能性のある他の世界線ということになる。

 この螺旋状の時間の説明では、その先に未来、つまり昇っていった先でらせんの直径が段々しぼんで、ある1点で収束したあとまた広がる様子が語られている。それはお終いになるのではなく、次元の交錯点を通るのだと説明されている

3 すると未来へつながる様々な可能性の世界が一旦すべて統合された一つの世界に集約され、次元の交錯点を過ぎるとまた、未来を紡ぐ様々なバリエーションの世界へ広がって行く、と言う意味にとれる。言ってみればある未来の集約点に向けて並行世界が一つにまとまる時点がある、と言うわけだ。次元の交錯点というのが何を意味しているのかわからないが、この考察の延長上で考えれば、我々は今のところ様々な未来の可能性があるように思っているけれども、どのような世界でも必ず通過するある現象が先々ある、と言うことだ。どの世界を通っても、最終的には同じ一点を通らなければならない。つまり我々に選びようのない未来の一点がどこか先にある、と言うことだろう。次元という言葉はこれまで書いてきた位相という言葉と通じる意味なのかどうか、わからないけれども。

(参考)「光の黙示録」アーリオーン・北川恵子著 大陸書房 p143~

2017.10.30

そういう人もいる、に隠されたもの

 昨今報じられたロードレイジと言われる問題。迷惑千万であることは誰もが言いつのる
が、落ち着く先は「そういう人も世の中にはいる」と言う言葉である。

 こういった”嫌な気分を割り切れない問題”が話題になった時に、大抵わかったような口調で「世の中にはそういう人もいるんだよ」と諭すように言う輩がいるものだ。

 世の中には色々な人間がいる。それは当然の現実で、自動車運転においては自らの気持ちが収まらずに危険な運転を向こう見ずに行なうような人間も事実存在している現状だ。
 それを何の評価も無く、ただ現実を示す為だけの意味でこう締めくくるのなら問題ない。
 だがこの言葉の裏には何となく「どうしようも無い問題を諦めるしか無いのだ:」という意味が隠されながら語られていると思うのである。そうでなければ話を終息させることができないからだ。
 しかし 「世の中にはそういう人もいるんだよ」で両親を亡くした子供たちの気持ちは納得できるはずが無い。報道を見て似た運転経験をした人も、「そういう人もいる」と言うだけで
は受けた恐怖感を無にはできないではないか。
  これは他の事件でも同じ事だ。突然見も知らぬ人を刺して回って誰でも良かったと供述するような事件があったが、「世の中にはそういう人もいるんだ」で刺された側は納得できるだろうか?
 そしていつ自分の身に降りかかるかもわからないこうした問題に、「そういう人もいるんだ」と言うだけで安心できるだろうか?
 結局実質何も終息していないのに、この「そういう人もいる」で一絡げに終わってしまってはいないだろうか。

 僕はその微妙な諦めムードに疑問を抱いてしまった。

 多様性の現実を語る事と、多様性故に問題解決を諦める事とは、違う事だ。だが「世の中そういう人もいるんだよ」という言葉には両方の意味が微妙に混在し、何となく諦めて話を終わらせてしまう威力がある。だからこそ心のどこかに割り切れないものを感じながらも、話題を流してしまうしかないのである。
 だが本当は解決などしていない。ただ現実がこうなのだから仕方が無い、と言うところで「思考停止」して終わりにしているだけだ。

 よく考えてみると、「それは問題じゃ無いの?」と言う最初の問いには、既に「世の中にそういう人もいるんだ」という前提を踏み越えた上で、「それでもそういう人が存在する世の中に納得しているの?」と問うているのではないだろうか。
 だからこそ「そういう人もいるさ」で終わらせてしまうのは何か違う。

 あおり運転をしたこの事件のように「切れる」人というのは、外的ストレスに対する自己防衛として行動を起こすのではないか、という専門家のコメントを読んだ。今探し出そうとしてもなかなか見つからないが。
 こういった解釈は、心理学者の一仮説としては受け入れられるかも知れないが、それで問題が解決するわけではない。むしろ「この犯人は外的ストレスが強かったからこういう行動にでた」と解釈されてしまうと、運転者の心の内側には問題が無く、外側に問題があった、とする言い訳にさえ聞こえてくる。

 「都合の悪いことが起きると、原因は自分の外側にある、と思おうとする」
 こういう人間の心理は確かに存在するが、存在することに納得して安心してしまってよいのだろうか?
 本当は自分の内側に問題の原因があるかも知れない事を鑑みて、自分自身を掘り下げてみるべきなのが人間の「ヒト」としての本来のあり方ではないのだろうか。専門家が口を出してしまうことで、その肩書きが本質的な内面模索の機会を奪ってしまっていると思えるのである。

 事実上、誰もが自分に問題があるなどとは思わずに生きているだろう。既に自分の内側を見て問題を発見し改善してゆこうと努力できる時期は過ぎてしまったのかも知れない。我々はこの時代にあって、自分たちのしてきた事の結果を、人類という集団責任の中で受け止めて行くしか無いのかも知れない。
 しかしだがだからと言って黙して語らずにいなければならない訳でもあるまい。

 どのような社会的制裁が科されても、本人の心の内面に変化が無ければ何ら解決しない。本質的には一人一人が自らの問題に自分で向き合わなければ解決しない。そういう人類になって行かなければ滅びかねない。だから自分だけは自分と向き合わなくても大したことは無いと思うのは間違いだ。
 しかし世の中の殆どの人は、未だにこのことに殆ど気づいていない。

 そう言う人もいるさ…それで納得して良いのだろうか?
 自分にもそう言う問題があるのではないかと、自分の内面を省みる事を、誰もが行っていなければ、何も解決して行かないのではないか?


2013.05.25

瀬戸大橋の亀裂の話題

今年2013年4月9日付け毎日新聞の配信によれば、09~10年の点検で瀬戸大橋に11カ所の亀裂が発見されていたという。本州四国連絡高速道路社は直ちに通行に支障はないとしているが、この話はかつてARIONが書籍で予告していた。

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 瀬戸内海の海底の構造が変化をはじめている。少しずつ四国が本州に寄りはじめて
いるからだ。瀬戸内海の海底の『皺』の形が変わってきている。
 表面的には大きな変化は見えないが、早くて3~5年の間には測量に現れるだろう。
瀬戸大橋に歪みが発見されるのは、もっと後になってからだ。発見される頃には手遅
れになるだろう。
(「光よりの光、オリオンの神の座より来りて伝える」p176-177)
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 これは地球の自浄作用の現れで、アリゾナ、シベリアでの核実験のしわ寄せが環太平洋火山帯の歪みの巣に現れると言う話の一環である。こうした地球規模の構造から見れば、日本列島が海底隆起と地盤沈下によって形を変えてゆくのは、当然の成り行きであるという。

 多くの人は、日本列島の形が変わる、などとは信じられないだろうけれど、地殻が移動することは既に常識だし、昨今の日本列島の地殻変動については一昔前とは全く違って誰もが心配しているところだろう。

 ARIONら神霊族は、かつて理解力の乏しかった時代の人類には「脅し」が必要なこともあったものの、基本的には脅しの必要を認めていない。むしろ現代人の理解力に対しては、真実を伝える事の方が効果的であると決議して、こうした予見情報を出していた。
 だからこそ私たちは右往左往するのではなく、瀬戸大橋に亀裂が出た事の意味を考え、地球規模での変化に目を向け、未来に向けての各自の価値観を形成してゆく糧にするべきだろう。

2013.01.14

問題の本質はシステムではなく心の中にある

 教師の体罰で高校2年生が自殺した事件は様々に騒がれているが、気になるのは多くの報道やコメントが社会システムの欠陥を問題視しているところだ。どうして心の問題には一切触れないのだろうか。

 この事件ではバスケ部顧問が2011年9月にも体罰の通報を受けながら、学校側は当時バレー部顧問の体罰事件が表面化したことで対応に追われ、大した調査もせずに見逃している。
 率直に思うのは、バスケ部顧問は何故、体罰をやめなかったのかという事だ。
 同僚が懲戒停職を受け、しかも市教委に自分の事も通報されていながらだ。
 今になって事件が大きくなり、謝罪をしているというものの、本当にこのバスケ部顧問は体罰を反省しているだろうか?

 いや反省していないのではないかと思えてならないのだ。
 反省するくらいならとっくに変わっていたはずだ。
 同一校勤続10年までと定めている市教委や転勤を薦めた校長に逆らってまで居残ったこの教諭は、元々自分のやり方に問題など微塵も認めていなかったのではないだろうか。
 だからこそ今でも体裁はともかく、やはり自らの方針を変える気はさらさら無いのではないかと思えてくるのである。

 自分の問題点を気付いて直そうとするのは辛い。何故なら、普段の人間は自分が悪者だとは思っていないからだ。直さなければならないと言うのは、自分が間違っていた事を認めなければ始まらない。これを認めることが全く出来ない人間が殆どの世の中になっている。
 自分は間違っていないと言い張っているのは心の虎、我欲の声であり、理性的には問題点を修正してより良くなる事を選ぶべきだと気付くべき所だが、人としての魂を殆ど失っている人間は、欲の言いなりになって安泰してしまう。

 実は悪者などいないのである。
 いるのは我欲に乗っ取られた人間だけだ。
 いるのは魂の抜けた人間なのだ。
 そう言う人間は、ヒトとは呼べないかも知れない。
 聖書風に言えば、人間ではなく獣である。
 欲を中心に動くだけの動物となる。

 これが振るい分けの時期を過ぎてもなお、ヒトとして当たり前にあろうと出来なかった人間の現れなのだろう。

 この事件では高校の他の教諭や校長らも事件を見て見ぬ振り、隠蔽した問題があるが、突き詰めれば一人一人が問題を正面から見て対処しようとしなかった勇気の無さが根底にあるだろう。
 「だってできないよ、そんなこと…」というところかも知れない。
 そして発覚すると態の良い言い訳をくっつける。

 だが問題は見て見ぬ振りすると、必ず後でもっと大きくなって再浮上する。
 つい先のいじめ自殺事件でもその事は充分示されていたのに、やはり目をつぶってしまった者たちが多かったと言う事だろう。

 だから溜め息が出てしまう。
 僕自身はこれまで嫌でも見なければならない自分と直面して来たし、それは今でもこれからも同じなのに、どうして彼らは…?と。九割九分九厘が魂抜けとなると言う日月神示の予見はあながち笑えない。



2012.03.03

荒れ野の修行の意味

 唐突だけれども…気付いたことをメモということで。

 先日、聖書で有名な荒れ野のイエスの修行の場面の解釈を理解出来た。悪魔が来て誘惑すると言うあれである。「人はパンのみにて生きるにあらず、神の言葉によって生きるものだ」と言って悪魔を退けた名言がある。
 多くの人々は恐らく、食料がなければ生きられないと言うだろう。だからこの名言は比喩的に受け止めるしかない。
 一方で所謂原理主義者らは言葉通り受け取るだろう。するとやはり食料がなければ困る事は困るだろうが、例え食糧が無くてもその代わりに神の言葉があれば生きられる、と本気で受け止めるだろうと思う。

 だがあの話はそういう意味ではないと得心がいった。

 パンというのは食料、つまり人間の生存本能の根本にある食欲を表している。つまり心が媒介する欲からのメッセージの象徴だ。
 一方神の言葉というのは、やはり心を媒介してやってくる魂からのメッセージであり、言わば生命としてあるべき生き方を示してくれる「直観」である。

 つまりイエスはあの場所で、欲よりも魂で行動を決めるべきだと学び、だからこそ欲を主体として人間を操ろうとする悪魔が取り憑けなかった…と言う話ではないかと。
 だがその様に解釈できるキリスト教徒も一般人も殆どいないだろうな…。

 自分を観る作業は自分の心に現れてくるものの中から欲を切り分け、欲から来たものではない何かしらを見分ける訓練であったように思える。その事を伝える逸話がいつの間にか寓話的に形ばかりとなってしまったように思えて残念だ。


2011.02.08

騒がれる八百長疑惑に

 今朝も大相撲の八百長のニュースだった。この事件にあまり興味を抱いていなかったのだが、今朝の話の中では次のようなところが引っ掛かった。

○相撲界は烈しく縦社会だ = 先輩後輩の序列が強い
○関取から落ちると格段に収入が違う、それが八百長の一因
○事情聴取のアンケートには正直にかくはずがない
○証拠が出ない限り完全な調査は無理
○ここまでしっかり調べたという態度でファンに納得いただくしかない

 自身の出世や給料のためだけでなく、先輩や親方が絶対の縦社会なので、自分ひとりの正義感では正直に答えられないと言うのである。これで何故相撲界が揺さぶられているのか解ったような気がする。

 縦社会だから正直に言えないのは本当に「仕方がない」のだろうか?
 本当に先輩や親方の為を思うのなら正直に白状すべきだろう。例えそれで壊滅的になってもその覚悟くらいは持っておくべきだ。何故なら今日と同じように明日が来るとは限らない毎日と言うのが真実現実なのだから。
 八百長という嘘を助長するのが本当に先輩や親方の為なのかと自問すべきだ。同時に、先輩や親方のためと言い乍らそれは結局巡って自分の為ではないのかとも自問すべきだ。自分とは一切利害がない状態で相手の為につく嘘ならばそれは、嘘というより方便と見なして良いだろう。しかしこの場合は利害があるので方便とは言えない。
 八百長をやったことのない力士でも、他力士の八百長を知っていて、上下関係の末に正直に言えない(言わない)のなら、それは決して方便ではない。

 力士の甘えの気持ち云々と言う話も出ていたが、甘えるなと言いながら全容解明は無理だろうと論じる背景には、人間は嘘をついて当然だという前提が見えた。
 嘘をつけば自信を失う。八百長をすれば力士としての実力や自信を失うだろう。嘘を付かないことが強さへの道だ。
 実力が伴わずに格下になっても、また上がれるように励むのが正当ではないか。落ちるのが怖くて八百長をし、対戦相手もそれを許すと言うのでは、本質的な実力は下がる一方ではないか。これは甘えというより矜恃の無さだ。相撲という人生に対して真剣ではないと言えるだろう。

 高校野球は打った球が一塁に着いてアウトだと判っていても、一塁ベースまで全力疾走するのが拍手を浴びる。しかしプロ野球ではアウトと判っていたらすぐ走るのをやめる。その違いはプロとアマチュアの違いであるという。
 ビジネスの上では僕も本当ではない事を言ったことがある。それは機密保持のためだったり、あるいは命令であったり、ビジネス上の理由があった。
 相撲でも現代においてはビジネス的側面があるだろう。そのビジネスに必要なら不正直な側面が生じても仕方がないかも知れない。しかし本場所の八百長となると、ビジネス上の理由とはとても思えない。勝ち負けで生じる利害関係で保身や利益が故のことだ。それはビジネスのためではなく自分のためだ。そう言うのは方便ではなく嘘になる。

 相撲協会のアンケートに八百長を認めた回答は0人だったという。先輩や親方を窮地に追いやってでも相撲に真剣さを追求する力士はいなかったのだろうか。あるいはいなかったのかも知れない。だからこそ相撲界はこれほどの振るい分けにかけられているのだろう。
 本物しか生き残れない時代になっている事に、未だ気が付かない人が大半を占めている。だが自分もまた他人事にかまっている余裕はない。自分自身がいつ振るい落とされるかわからない、自分との戦いの時代なのだから。

2010.11.03

輝けるって?

 散髪はいつものNさん。いつも行く度に髪の色や眼鏡などが変化する。久しぶりに行ったのだが、今回彼女の容姿はあまり変わっていなかった。

 そのNさんに訊いてみたことがある。

 以前ブレイクしていたSP○○Dと言う若い女の子のグループ。流石に僕でも知っている。その彼女らの歌詞に「きっと明日は輝ける」と言うような一言があった。聞いた時から何となく気になっていた一文だ。きっと彼女らと同世代の女の子たちは「輝ける自分」が常日頃の望みなのだろう。

 ところで最近コンビニなどに入る強盗のニュースが目立つ。先般も1万5千円だか奪って逃走したと言う。こうした中には青少年の犯罪が目立っていて、警察発表曰く遊ぶ金ほしさで犯行に及んだとよく説明される。
 遊ぶ金が欲しい? 渋谷にたむろすような少年少女は、決して自宅が貧困というわけではないだろう。にもかかわらず1万2万の少額で強盗事件を起こすのか。遊ぶ金ほしさと発表されているが、彼らの望みは本当に遊ぶ事なのだろうか? 輝く自分を実現するために強盗するのだろうか?

 Nさんはもう美容師として大人の女性として自立しているのだが、彼女の立場で考えれば「輝く」というのは職場で自分が居なければ成り立たないと言う風に認めてもらえることかな、と言った。つまり自分の存在価値を向上させることだ。

 僕はこういう欲求を「自己価値確認欲」と名付けている。
 人間は赤ん坊の頃から自分の命を守る為に食欲や睡眠欲などの欲が身体を護っている。それはとりもなおさず自らの存在を護ろうとする欲求だ。成長して生活が安定してくると、この欲求は更に発達し、「自分の存在価値を護ろう」と働くようになる。更に「自分の存在価値をもっともっと上げよう」と言う現れ方をする。
 自己価値確認欲は欲の中では非常に素直な現れ方で、あまり気にされない。多くの人は向上心と呼んで正当化する。
 しかし実のところこうして向上される自分の存在価値というのは、「外的評価」を望んでいるのであって「内的評価」でない事が殆どだ。勿論、技術を売り物にする人にとってこうした欲求は良い方向に働くわけで、自己価値確認欲が悪いと言っている訳ではない。ただ自分の望んでいるものが外的評価ばかりの場合には、実はいつまで経っても充足感が得られないものだ。

 Nさんは今の若者たちはお金の掛からない遊び方を知らないとも言った。田舎育ちの彼女はお金の掛からない遊び方を知っていたが、都会に住む子供たちは、遊びたければお金がかかるのが当たり前であり、逆にお金がなければ遊べないと思い込んでいるのだろうと。

 そうかも知れない。そのために金を奪ってでも楽しさを求めたいのだろう。しかし遊べないと何が困るのか…それは実は友だちと一緒に居られないのではないだろうか。友達と連めないと自分の存在は希薄になる。仲間内で対等に扱われ、仲間として自分の存在を認めてもらえる事が、唯一の自己存在価値の確認手段なのかも知れないのだ。
 そう考えれば、自己存在価値を失う事よりも、犯罪に手を染めてでも自己の存在を守ろうという発想が生まれてきておかしくはない。

 現代の殆どの人々は自己価値確認欲に踊っているのだろう。そしてそれに気がつかない。アスリートが優勝インタビューで自分を褒めてやりたいと言った様子をテレビでみたことがある。それは本当に苦労して成し遂げた人物が自分で自分を評価する「内的評価」だ。
 「外的評価」が時々刻々と環境や状況で変わって行くのに対して、「内的評価」は決して変化しない。そしてそれこそ本当の自信となってゆく。誰にも認められなくても自己存在の価値を見失わないで居られる。そうしたことをまだ殆どの人が知らないかも知れない。ごく一部の人が言葉に表せないけれども感じ取っている事ではあるだろう。
 本当に内的評価を持っている人は、意外にも穏やかで性急な自己価値確認をしようとはしないものだ。

 自分の存在をかけて、友だちをつくり友だちと遊び、そのための金を費やす。多くの友だちや知らない人々からも歓声を挙げられ、ステージで焼けるほどスポットライトを浴びる…。それが輝ける明日に望むことなのだとしたら、虚しい勘違いだ。その幸せは外から来るたった一瞬でしかなく、そしてそれに頼る心は既に内側に柱を持たない、いつ崩れるかわからない危なっかしい不安である。その不安に気付かない為にまた輝きを求めるしかない堂々巡り。
 もっと誰に知られる事もない乍らも自分には好きで得意な事があるんだ、という気持ちを育てたら良いだろうにと思う。

 手前勝手な杞憂なら良いのだけれど。

2010.03.20

気付いた時には遅すぎた

 久しぶりに外食してみた。勉強で長時間とどまる学生が後を絶たないらしく、2時間という制限時間まで設けているようだ。お店としては毅然とした態度をとらないとならないだろう。

 こういうおかしな話が多い。増えている。
 自分のことしか考えない我よしが増えた為に、社会機構そのものが歪み始めている。政治家も同じだ。この国を良くしようという事よりも人間関係での力学に縛られている。
 日本人の「何となく分かってくれる」感覚と言うものは、もはや期待できない。しかし毅然としたところで、開き直って我を通すべく粗暴になる者も多い。
 戦後教育の責任などと言っている場合ではなく、いやむしろ誰もが自分の育つ過程で良心回路をどこかに置き忘れて来たのは、各己れの責任になっているだろう。

 物事は考え方次第と言われる。立ち位置を変えれば同じ事実も違って見える。事実そのものは変わらなくても、その評価が変わる。受け取り方が変わる。そして善悪が変わる。
 こうした相対価値観に染まった多くの人々は、結局良心の基準をもてなくなってしまった。

 米国の高校では遅刻しても弁明できれば許されると言う話を昔みた。訴訟の国、裁判の国民性を持つ国だから、言い繕いでも何でも弁論することが事実よりも取り上げられるらしい。となると嘘でも見破られないものであれば使えば言い訳出来る事になる。
 そうして話し合いで解決しようと言う風習が国際問題でも重要視されているように思える。スピーチが重要視されて、実態がどうであるかはあまり関係無いようだ。

 日本の政治家が言う事は殆ど全てが「全力で~したいと思う」「したいと考えているところである」そんな言い回しだ。実際「~」をしなくても「あのときはしたいと思っていたのだ」で言い訳ができる。「~」が実現しなくても「したいと考えていただけで実際にやるかどうかは別問題だ」という事になる。
 何をしたかではなく、何を言ったかが問題視されている。

 善悪の判断が付かなくなった人間たちが、現実ではなく言論をこそ重視している社会では、誰もが全ての事実と関係無く言論上の仮想現実に生きていると言っても良いだろう。
 そして事実としての人々の生活は更に歪んでゆく。そして気付かない。


 昔は「お天道様が観ている」と言って善悪を語った。誰も見ていなくても、夜の闇の中で一人でいても、そこには人外の存在が明らかにする善悪があった。
 だが現在では科学的に証明されていないと言う事で曖昧な基準は取り払われてしまった。存在を証明できないものの発する基準は意味がないと言う事になった。
 テレパシーなど科学的に立証されていないので、法廷で宣誓しても嘘をついたって判るまいと思うのが現代人だ。

 善悪の判断は今では殆ど無意味であり、言論では説得出来るかどうか、力関係では徳をするか損をするかが、是否の基準となった。
 儲かれば正しいから汚染されたような悪い物を売っても構わない…、心身耗弱だったと言う事にして書類を揃えれば罪を問われない…、選挙に勝つためなのだから国民感情など二の次で当然だ…

 しかし事実として起きている事とは何なのか。
 奇術師の手元に気を取られテーブルの下で何が起きているか見えない、いや見ない方が観客として正しいのだと思っている人間が殆どではないだろうか。そうやって誰もの意識が仮想現実に囚われていて、疑問を持たないようになった。

 最後に残った人々の判断基準は何か。
 それは「楽しいかどうか」ではないだろうか。
 楽しければ良い、楽しくなければ意味がない、人生とは楽しむためにこそあり。
 何が楽しいのかは人それぞれだが、それが楽しいと言えば認めるしかないのもある。
 だから何でもありになった。
 楽しむためには金が要る…

 もう目を覚ますのには遅いのだろうか。
 仮想現実から出て本当の現実に意識を置くことは出来ないのだろうか。
 善悪の判断を人外に感じていた感性は失われてしまったようだ。



2009.07.18

人生の主役

 誰もが当たり前のように思うこと…人生の主役は自分だ、と。
 これは誰もが主観的に生きているから当然と思われがちなのだけれど、そうでもないと感じる経験を時々するものです。自分が重要視されない時に面白くなく感じるのは、自分と言う主役を脇に置いて何ということだと、我欲がわめいているから。 僕はこの我欲に「自己価値確認欲」と名前を付けています。と言ってもしょっちゅうこの欲に突き動かされているので、まだまだ修行が足らん(笑)というわけなのですが。

 大分前のアニメ映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」というのをご存じの方もいるかも知れません。ガンダムが流行始めた頃ですから、宇宙を縦横無尽に飛ぶロボットで戦争をするようなアニメが流行っている時代に、初めて宇宙に有人ロケットを打ち上げるまでの物語を題材にして、絵とは思えない美しい仕上がりと精密な考証で作られた作品です。
 その主人公シロツグが、ある事を切っ掛けにやはり「自分は人生の主人公では無く、悪役なんじゃないか?」と迷う場面がありました。その時、親友のマティは「よくわからないけど…」と前置きして言うのです。
 「俺がここに存在していられるのは、
  俺を必要としてくれている誰かがほんの少しでもいるからだと思っている。
  そこの金物屋だってそうだ、
  誰かが必要としてくれているからこそ、金物屋でいられるんだ。
  この世に不必要なものなんてない、そんなものはいられるはずがない、
  そこにいること自体、誰かが必要としていると言うことだ。
  必要なくなったらたちまち消される。
  こう思う、どうだ?」
大体こういうことです。その直後にシロツグは敵国のスパイに殺されそうになって危うく命拾いをするのですが、そこで命拾いをしたこと自体がシロツグの迷いを振り払って行きます。

 この世界の誰もがそういう必要な存在なんだと思えば、自分だけ特別に価値があるとは言えない。
 自分を脇役だと思うのはプライドが許さない人もいるのかも知れないのだけれど、実は皆が脇役で、主役はどこにもいない…あるいは全員が主役で脇役はどこにもいない…要するに人生の主人公という発想そのものが既に自己価値確認欲のささやきだった、と気が付くんです。
 
 今までは自分に対してそう考えてきました。でも他人に対しても同じかも知れない。スポーツで優秀な選手を讃えたり、学識深い人を尊敬したりするのもl、実は特別視ではないかと。確か加山雄三氏の言葉ですが、能力は枝葉であり、幹になるのは人間性だというのです。
 これからは他人に対しても自分に対するのと同様、ヒトの上下はないと思えるようになりたいものです。とは言ってもこう言うのは実践で身につけてゆくしかないので、結局修行が足らん…という事です(笑)。


2006.01.07

信頼されたい虎

 うちの女性職員の一人がどうやら僕を嫌っているようです。仕事の都合で話をしなければならないときもあり、その都度彼女の険悪な態度にストレスが溜まります。どうしてストレスなんだろう? 考えてみました。

 ストレスが生じるということは、何か思い通りになっていないことが生じていると言うことです。では僕が思い通りにしたいことと言うのは何か? 嫌われないと言うだけではなくて、どういう状況を望んでいるのだろうかと思い馳せてみました。
 この子はかつて恋人と死別しているとか、大きな手術をしているとか、死に際の経験をしているとか、そういうところで僕と共通するところがありました。転属してきた当初は休憩室で二人でそんな話をしていたものです。しかし彼女は自分には心の闇の部分がある、と思っているようでした。しかしそういうことを話し合える間柄、つまりある意味での信頼関係があったのです。
 ところが今では印鑑貰うのなら僕ではない誰かからとか、仕事の話の必要があっても冷たい顔で素っ気ない返事です。一度などは「SUKEさんって二重人格だったんですね」とよくわからないことを言われました。どうやら彼女の信頼していた僕ではない別の一面を知って、信頼できなくなったようです。
 ここまで考えてみて、僕は今、慕われたいというよりは信頼されたいのだと気がつきました。恋愛的な意味とは全く違って、信頼関係が一時期はあったものを、失ったことにがっかりしストレスを感じていたのです。

 慕われたい虎にしても信頼されたい虎にしても、僕にとって自分の価値が上がるからそうしたいわけですね。基本的に自己価値確認欲の現れ方の一端なのだと気づくのはそれほど難しいことではありませんでした。

 問題はこれからどうするかですが。失った信頼を取り戻すのは失うのに要した時間よりもずっと長い時間が必要だと言われます。どうして信頼を失ったのかはよくわかりませんけれども、覚えがない以上、彼女の側に何か理由があるのでしょう。例えば彼女がまだ「子供」だから…という見方も出来なくはありません。しかしそういうことは彼女の側の問題であって、僕の側の問題とは別です。僕に出来ることは僕の側の問題だけです。どのみち信頼を回復するのには簡単ではないでしょう。
 得たいのならまず与えることと言います。だから今の僕に出来ることは、逆にこちらからは彼女を信頼することでしかないでしょう。仕事の上では信頼すると言っても多少危なっかしいところもあるのですが、技術的には高いものを持っているし、彼女の中に信頼すべき一面を幾つも見いだすことはそれほど難しいことではないと思います。そういう信頼を持ってビジネスライクに接してゆくことしか僕には出来ないだろう、と考えました。

 もう一つ、このストレスをどうしたらよいかということについてはまだわかりません。ただ、信頼されたい虎なのだとわかっただけでも少しは楽になるかも知れないと思っています。そして敢えてその虎に乗せられないように気をつけておくくらいでしょうか。つまり信頼されなくても自分の価値とは関係ないと言うことを、身を以て体験的に学ぶしかないのでしょう。

 久しぶりに少し突っ込んで考えてしまったSUKEでした。